2020年12月25日公開のポケモン映画『劇場版ポケットモンスター ココ』のレビューを執筆する。※後半ネタバレあり
劇場版ポケットモンスター ココ 感想/レビュー
第1作目の『ミュウツーの逆襲』から毎年リアルタイムでポケモン映画を見てきたが、2017年の『キミにきめた!』から始まる新生ポケモン映画の新たな歴史には、毎年ワクワクさせてもらっている。2018年公開、矢嶋哲生監督の『みんなの物語』では群像劇としてのポケモンに感動し、これからのポケモンに様々な可能性を感じた。
そして同じく矢嶋監督の新たな挑戦となる本作『劇場版ポケットモンスター ココ』は”ポケモンと人間の親子”がテーマの作品だ。『みんなの物語』は私の中では久しぶりの大ヒットだったため、同監督の手掛ける『ココ』にも非常に期待していた。そして本日、ココは歴代最高傑作として私のポケモン史に刻まれることになった。
オープニング ~ 父親としての日々
物語が幕開け、数分後の出来事である。感情を大きく揺さぶられるのを感じた。ザルードが赤ん坊を拾い自分の子として育てる決意をしてからの10年間は、映画の構成上、しっかりと時間をかけて描かれるわけではない。しかし、短時間であっても、ザルードが父親としてココと共に歩んできた軌跡を十分過ぎるほどに”分からせて”くれたのである。
映像と音楽によって紡がれる彼らの軌跡は、これから始まる物語への没入感を最大限まで高めることに成功している。感動する準備を整えて劇場に足を運んだが、誰が開始数分で涙を流すことになると予想できただろうか。すでにこの時点で今回の映画が素晴らしいものであると予感した。音楽、演出、作画ー。見た方であれば恐らく共感していただけるはずだ。この作品は、本気だ、と。
第三者的視点で描かれるサトシ
歴代のポケモン映画で描かれてきたのは、主人公としてのサトシでありヒロイックな存在として窮地を脱するために中心となって先導するサトシである。だが、今回は違う。サトシはあくまで登場人物のひとりであり、主役はココとザルード、そして森のポケモンたちである。サトシは、ココとザルードの物語を見守る我々視聴者の視点に近いといってよいだろう。
ただ、それは決して存在感がないというわけではない。ココが自身の正体を知るきっかけ(いわば物語の起動装置)はサトシとの出会いから始まるうえ、ココとザルード・さらには森の未来を新たなステージへ羽ばたかせる為に欠けてはならないピースでもある。
この絶妙なキャラ配置は、主人公にあたるキャラクターが複数設定された2018年のポケモン映画『みんなの物語』でのサトシの立ち位置に近いが、明確に異なっている。みんなの物語においては物語中盤、同作を群像劇たらしめた複数の登場人物たちを主役級のパワーワード”ポケモンパワー”で先導し、リーダー的存在としてその物語を確かに前に押し進めていたのである。
しかし、本作においては、あくまでサトシはココやザルードたちに協力する一人でしかない。主役級のセリフで物語を引っ張るわけでもない。歴代映画でのサトシの立ち位置を考えれば、究極に引いた視点から描かれているのである。彼らはサトシの行動に影響されたり、なにかを言われて動いているのではなく、100%自分たちの交わる意思の中で決断し行動している。この意思決定は間違いなく作品の質を高め、我々が感じた大きな感動に直結している。
世界観に寄り添った音楽
本作では、岡崎体育の監修する挿入歌が全編を通して使用されている。彼のポケモン愛は本物だ。でなければ、ここまで作品の世界観と調和する音楽は作れない。「掟の歌」「ココ」「Show Window」「森のハミング」「ふしぎなふしぎな生きもの」「ただいまとおかえり」、ポケモンへの深い理解があればこそ生み出せた音楽たちは、まさに映画ココのための音楽といえよう。彼がこの作品の為に費やした1年に盛大な拍手を送りたい。
種族を超えて子に引き継がれた奇跡
本作の見せ場は非常に多い。一度没入してしまえば感動シーンのオンパレードだ。その中でも、ひときわ印象に残るシーンとして、ココがザルードを森の力を借りて治療(ジャングルヒール)したシーンが挙げられる。強く願うことで森の力を借りて絶大な回復力を発揮するこの能力だが、そもそもザルードのなかでも”とうちゃんザルード”など特別な個体だけが有する稀な能力である。
本当の親ではないことを負い目に感じながらも親のいないココの為に厳しい掟を破り自らの人生を捧げた”とうちゃんザルード”と、本当の子ではない(さらに言えばザルードですらなく人間という別の種族であった)という事実に思い悩むココ。非常に心苦しさを感じる関係性だが、上述した治療シーンを見た時に、私は心が救われたような気持ちになったのである。
親から子に引き継がれた奇跡は、間違いなく彼らが種族を超えた”本物の親子”であることの証明に他ならない。ココはポケモンと人間・両方の立場に立てるからこそ、両者の架け橋となるべく旅立つことになったが、遠く離れていてもココとザルードの親子としての絆は決して途切れることはないだろう。
同時に流れる神秘的な挿入曲「森のハミング」も”奇跡”であることをより強調し、相乗的な効果を生んでいた。この神秘的な音楽を流したまま森のポケモンたちの最後の戦い(連携シーン)へと自然に繋がっていく流れも圧巻であった。
花火の重要性
本作では合計3度の花火が打ち上げられるが、それそれ全てに重要な意味合いがある。
最初の花火は回想におけるザルードと赤ん坊のココが見た花火、ザルードにとってはココを育てると決意した日々を想起させる花火。2度目の花火は、ココが人間の暮らす街でポケモンと人間の関係性を見て、さらには自らの正体を知るきっかけとなる日に見た花火。最後の花火はクライマックス、ザルードたちがココを見送る為に打ち上げた花火だ。全て物語のターニングポイントとなるような場面で打ち上げられている。
3度目の見送り花火
クライマックスで打ち上げられる3度目の花火は映像や演出もさることながら、打ち上げに至るまでの経緯や背景なども秀逸であり、大きな感動と共に我々に押し寄せた。本作を象徴する最大の感動シーンであるといえよう。
1度目2度目の花火とは異なる点として、3度目は火ではなく水である。本作においては神木から成る治癒の泉の存在が非常に重要で、泉は森の癒しの象徴であるといえる。火ではなく泉を構成する水を用いることで、神秘的な印象と森全体でココを見送っているかのような一体感を映像として演出することに成功している。
なぜ花火で見送ったのか
とうちゃんザルードは親を知らない。ゆえに親のいないココを自分と重ねて、厳しい掟を破ってでもココを育てていくという”決意”をしたのである。上述したように1度目の花火はザルードの”決意”の日々にとって印象的なものとして描かれている。本作で描かれた一連の出来事を経て成長した息子が、旅立ちというひとつの”決意”に至り、かつての自分と同じように大きな転機を迎えようとしている今、自分の決意の象徴でもある花火を打ち上げて「頑張れよ」と見送ったのだろう。それは紛れもなく息子を応援する父親の姿であった。