多くのポケモンが進化によって順当に力を増す一方で、ことナマケロ⇒ヤルキモノ⇒ケッキングの系統に至っては、一部でこれを退化とみなす声も聞かれる。
怠惰なナマケロがヤルキモノとなり、漸く一念発起してやる気を出したにも関わらず、ケッキングに進化することで再び食っちゃ寝の自堕落な生活へと舞い戻ってしまう。確かに、退化と言われても仕方がないような有様だろう。
ナマケロが示す正統進化の極致
しかし、彼らは本当に退化してしまった存在なのだろうか。
筆者の見解は、否である。むしろ、これこそが生物が辿り着くべき正統進化の極致であり、ナマケロが、人類とその他の生物を隔てる一線を超えた証なのだと考えている。
この世界の生物のほとんどは、生きるために生きている。クラブはピンチになれば自分のハサミをもいで逃げるが、これはハサミより命の方が大切だとクラブの本能が叫んでいるからである。
しかし人間は、仕事で犯した大きな失態や、失恋によるショックが元で、時として自ら命を絶つことがある。命よりも別なものに比重を置いているのであり、ともすれば人間にとって重要なことは、生きることそのものではなく、どのように生きるかという中身の部分なのである。
ナマケロの緻密なライフプラン
どのように生きるか―。ここに、人類とその他の生物の決定的な差異がある。ナマケロはその差異を乗り越えて、人類側へと足を踏み入れているのだ。
ナマケロもケッキングも、生きるために最大限の努力をするのではなく、怠けるために必要最小限の生きる努力をして過ごしている。種族的に見ればサルに分類できる彼らが、人間に近しい思考回路を示すことは、ある意味自然なこととして受け入れやすくもあるだろう。
実際、ケッキングは怠惰ながら、その力は並の竜や伝説のポケモンを凌ぐほどのものがある。つまり、ケッキングはただ怠けているだけではなく、既に成すべきことは成したがゆえに、引退して余生を楽しんでいるようなものなのだ。
ナマケロの進化の在り様は、人のそれと非常によく似ている。子供時代は遊ぶのが仕事、大人になれば身を粉にして働いて、年を取ればゆったりとした老後の生活が待っている。人間が自らのライフプランを綿密に設計するように、ナマケロもまた、自らの生を緻密に計算していった結果、怠けるべき時に怠けているのではないだろうか。