形のあるモノには思いが宿る、そんな話は地方を越えてよく聞くことだろう。
これを聞いて迷信だと思う人も、自分が普段よく使うものには多かれ少なかれ愛着が湧くことが全く無いか?と言われれば否定しづらいかと思う。
それくらい、モノに情念が宿るという感覚は我々人間にとって身近と言ってもいいだろう。
これは知人から聞いた、あるモノを拾った際の体験を書き起こした話だ。
夏の暑い日、自販機で飲み物を買った。取り出し口に吐き出されたおいしいみずを取ろうと屈み、足元に日射しを受けて鈍く光る何かがあることに気づく。
拾ってみればコインが一枚。誰かが落としたまま気づかなかったのだろう、ラッキーだと思ってそのまま財布にしまい込んだ。
時刻は昼過ぎ、ちょうど太陽が高い時間。
照り返しが直に熱を体に届け、喉が見る見る間に乾く。
買ったばかりのおいしいみずもすぐに飲み干してしまった。
徒歩で来たことを失敗だったと思うが、それでも歩かなくては。
でもどうしよう、暑い。どこかで涼みたいな。
そう言えば近くにちょっとした公園があったはずだ。
そうだ、あそこに行こう。
行かなければ。
そうしていくらか歩きいてふと、涼しい風が吹くことに気づいた。
そうだ、このトンネルまでくればだいぶ涼しいんだった。
清々しい気持ちになって、鼻歌を歌い、手の中のコインをはじきながらそのまま暗がりの中へ進む。
暗いと言っても、ここはすぐ向こうが見えるくらい短いトンネルだ。
すぐに木漏れ日が出迎えてくれた。
そのまま歩けば開けた場所に出る。ここに来たかったんだ。
大きなお社の前に、口を開いた立派な箱が備え付けられている。
箱の中にコインを投げ込み、お社に向かって礼をし、
じわ、じわ、じわ、じわ。
大音声のテッカニンの声が耳に届いた。
暑い。どうして自分はこんなに暑い中、わざわざ歩いてこんな場所に来たのだ?
来た道は何年も前に廃道になっていたはずだ。
いや、そもそもあの道の先にトンネルなんてあっただろうか?
それにしても暑い。鬱蒼と茂った森は、清々しさよりもじっとりと湿った暑気で体を取り囲む。
どうしてこんなところに来たのだろう、早く帰らないと。
下げていた頭をようやく上げようとしたところで気づいた。
ごつごつとひび割れ、岩肌と見紛うばかりにかたい質感の、大きな大きな木の幹が、目の前にあった。
そしてそのひびのひとつひとつに、びっしりと、コインがさし込まれている。
にびいろの光を放つもの、わずかな木漏れ日にも輝きを反射する真新しいもの、何百何千ものさまざまなコインが、その木の幹を埋め尽くさんばかりに、びっしりと。
自分はそのうちの一枚に手を掛けていた。拾ったあのコインが、幹に半分ほどその身を埋めていた。
お社なんてなかった。ただひとつの大樹だけがこちらを見つめていた。
いや、ちがう。大樹だけではない視線を感じた。
頭の中でなる警鐘とは裏腹に、自分の視線はその主をさがしてさまよう。
チャリン、と足元からかすかに音がしてハッとする。
そこに目を向ければ、コレクレーがいっぴき、そのちいさな口を張り裂けんばかりににい、と吊り上げてこちらを見上げていた。
コインは様々な人の手に渡るモノだ。何百何千もの人の手を、大小の思いを伴いながらうつろいわたる。
そのひとつひとつのうつろいの過程に、誰が、何を思ったのか。どれほどの、どんな情念が積み重なっているのか。我々に知る術はない。